戦後横浜野毛界隈 nogelog

大正生まれが野毛界隈を語る。

MPの嫌がらせ

 おだやか派のMPがいれば、強硬派のMPもいた。占領意識の強い一部のMPは、嫌がらせをした。米兵の嫌がらせはわら笑いながらするから、アメリカ人特有の悪ふざけなのか、本気なのかわからないわけだ。あるとき、使っていない死体焼場の扉を開けたMPが、「オマワリサン、サヨナラネッ」とい 言いながら、竹さんの両手、両足をもって、ほうりこもうとした。竹さんは、ただ、「ノウ、ノウ」と言いながら手足をバタつかせて難をのがれたが、冗談か本気かわからなかった。言えることは、自分達の行動を三十分置きに司令部に報告されては、たまったものではない。イマイマしく思っていたにちがいない。ところで、米軍MPのジープは悪路に強い四輪駆動の戦闘車だから、階段の坂道でもドンドン走る。野毛山の近くに「うさぎ坂」という階段ばかりの坂道がある。MPは、その坂道をアメリカ人特有の奇声を発して高速で走る。ジープはピョン、ピョン跳ね上がる。日本警察官はうしろの座席に乗っているので、ジープが跳ねるたびに屋根に頭をぶっつけるのだ。それを三回程やられるとグロッキーになる。すると、坂の上に待っている別のジープの警察官と交替させてまたやる。竹さんもそれをやられ、ついに頭にきた。早速、上の人にお願いして米軍憲兵司令部勤務をやめて帰らせてもらい、また、都橋の竹さんに戻った。
f:id:nogelog2014:20140827131616:plain

MPの親切?

 ある日、竹さんは配置巡査部長から、加賀町警察署内にある米軍憲兵司令部勤務を命じられた。任務は、MPジープに同乗して日本人関係事件を処理することだった。拳銃を渡されて直接司令部に出勤し、米軍将校の服装点検を受けたが、拳銃の弾丸を込めていないで、厳しく注意された。「スグ、ウテルヨウニ、シナサイ」、「サキニ、ウタレタラ、ドウシマスカ!」といった調子だ。仕方なしに拳銃に弾丸を込めると、次に、信じられない命令をされた。それは、「MPがパトロールをサボルから、三十分置きに現在地を司令部に報告せよ。」というものだ。つまり、占領軍の憲兵を、占領された国の警察官が監視するという任務なのだ。ところが、この米軍の密命をMPが知ってしまった。それは当時の米兵のなかには、日本人の現地妻のいる者がいた。この女性達から日本語を教わり、日本語のわかるMPが現在地を生麦と報告しているのに、日本警察官が現在地本牧と報告するのを聞かれてしまったわけだ。あわてたMPは、日本警察官抱き込み作戦にでた。おかげで竹さんも、PX(米軍売店)で、当時日本人の口には絶対に入らないケーキ、ココア、コーヒーなどをご馳走になった。そして「オマワリサン、イマ、ナマムギネ」と言われると本牧にいても「OK、現在地生麦」と報告し、和気あいあいに勤務した。
f:id:nogelog2014:20140827131615:plain

東京帝大出の浮浪者

 京浜急行線、日の出町駅東側上の台地の崖に小さな防空壕があり、一人の浮浪者が住んでいた。髪をボウボウとのばし、髭ものびるがままで風呂にも入らず、顔はくすぶっている。その防空壕の前は高台の空地になっていて、そこに立って見渡すと、焼跡に建てられた木造の家並みの向こうに横浜港が一望でき、まさに展望抜群の場所である。浮浪者は黒いオーバーコート、色不明のくすんだ背広を着て、黒皮のボロ靴を履いている。日の出町駅の横の石段を登って行くと、その高台に出る。「コンチワー」と声をかけると、「ヤアッ」とい 言って前歯の抜けた柔和な笑顔があらわれる。彼は、空地に竈をつくり、たった一つ持っている大きな飯盒に、飲食店のゴミ箱から拾ってきたのだろうか。ギンシャリの残飯を入れてお粥をつくる。一人暮らしの浮浪者の病死がよくあったので、竹さんは、巡回のとき立ち寄ることにしていた。ある日、竹さんは、なにげなく浮浪者の読んでいる本を見て驚いた。外国語の原書、哲学書、中央公論などと、むずかしい本ばかりだ。竹さんが「あなたは学者ですか?」と尋ねると、「東京帝大で哲学を勉強しました。」と答え、ウララカな春の日差しをいっぱいに浴びて、前歯の抜けた黒い顔をほころばせ、気持ちよさそうにニコッと笑った。

f:id:nogelog2014:20140827131614:plain

経済取締り

 敗戦後間もないころは、経済統制されていない物資はないと言っても言い過ぎでない。警察には経済係という闇物資取締りの専門係があるが、人手不足に加え、闇物資に頼らなければ生きられない時代では、ときどき行われる米軍の一斉取締りに協力するのが精一杯なのだ。ある日、米軍MPがジープで交番にやってきて、野毛の闇市の取締りをすると言う。MPと日本警察官が協力して取締りをするわけだが、主体は、やはり日本警察官だった。だが、占領軍絶対の時代だから、米軍物資を売っている人びとは、蜂の巣をつついたように商品を隠した。竹さんが気にかけたのは、錦橋通りの中程で細ぼそと喫茶店を営んでいる幼い一人娘を抱えた戦争未亡人の店だった。「母親が捕まると生きて行けないだろう。」と考えた竹さんは、真っ先にその店に飛び込み、「一斉だ、砂糖などないな?」と言って表にでたとき、MPが来た。竹さんがMPに「OK」と言うと、MPは、「OK」と答えて一緒に交番にひきあげた。結局、その日に捕まったのは、本署経済係と米軍幹部が行った大きな料亭だけだった。竹さんは、生きるための闇と、金儲けのための闇とは違うと考えていた。
f:id:nogelog2014:20140827131613:plain

デンスケ賭博師のハイカラ老人

 野毛の町に一際目立つ奇怪な老人がいた。名前を知る者は仲間内にもおらず、「じいさん」でとおっていた。噂では、十六歳位の美しい女房がいるとのことで、そのためかろうじん老人のみなりは、かなりハイカラだった。白髪頭に派手なサラサ模様のスカーフで鉢巻をしている。それに白い髭をたくわえた容貌は、どこかベートウベンに似ている。自分で開発?した一メートル平方位のベニヤ板に時計の文字盤のようなデザインを書いた道具を使ってデンスケ賭博をやっていた。近所の人の話によると、前歯一本しかない老人のなめらかなシャベリが面白いとのことだ。「サァ張った、サァ張った、張って悪リィは親父の頭、張らなキャ食えネェ提灯屋、サァ、サァ張った、張った」とやると、リンゴ箱を重ねた台に乗せたベニヤ板のまわりを取り巻いたサクラ(仲間)が百円札をポンポンと好きな文字の上に張る。「サァ始めるよ、始めるよ」とオドケた声で「ドッコイ、ドッコイ」と言いながら盤の上の針をクルクル回す。針の止まったところに賭けた者が盤の上の掛け金を全部貰うのだそうだが、糸で操作しているので客は勝てない。だが、「じいさんとサクラの演技?」がうまいので、立ち止まって見ているうちに、引きこまれてしまうわけだ。その頃の交番の横には取り上げたリンゴ箱がいつも積んであった。

f:id:nogelog2014:20140826140830:plain

浮浪児たぬき

 終戦後間もない野毛の町には、戦争で身内を失い、天涯の孤児となった少年がいた。「たぬき」も、その一人で愛くるしい男の子だった。「たぬき」という呼び名は子狸のように可愛かったので露店の人がつけたのだろう。年齢は六歳位だったか、ボロをまとって露店の使い走りをして健気にくらしていた。交番と市役所で保護施設に入れても、無法地帯のもつぬくもりが忘れられないのか子犬のようにすぐ帰ってくる。ついに根負けしてしまい、露店の人びとが世話をしていた。ある寒い冬の夜、竹さんは、先輩とともに巡回から帰る途中、寒風の吹き付ける屋台に丸くなってね 寝ている「たぬき」をみつけた。人情の厚い先輩が「竹さん、このままでは凍え死ぬぞ、交番に連れて行こう。」と言ったので、竹さんは、着ていた制服のオーバーコートを脱いで「たぬき」をくるみ、横抱きにして桜木町駅前交番に連れて行き、ストーブのそばに長椅子を置いて、そこに寝かせた。しばらくすると、青かった少年の顔に赤味がでてきた。先輩と竹さんは安心して同僚に少年を頼んで休憩室に入った。その頃の交番には、そんな仕事もあったわけだ。
f:id:nogelog2014:20140826140829:plain

手信号巡査

 交番勤務一ヶ月で竹さんは交通巡査を命じられた。戦争中、米軍の横浜大空襲で焼け爛れた信号機の柱があちこちの交差点に立っており、動いている交通信号機は一つもなかった。占領後の米軍は、日本警察官に手信号をさせることで信号機に代えた。手信号の指導は、米軍憲兵中尉と憲兵軍曹が担当し、警察署の道場や近くの中学校の校庭でときどき行われた。その頃はなんでもアメリカ崇拝主義であり、日本警察官がいくら一生懸命手信号をしても、日比谷交差点で行っているMP(米軍憲兵)の手信号ばかり日本の文化人は絶賛し、日本警察官の手信号をケナシ続けた。そのため、職務熱心?な竹さんは、わざわざ東京の日比谷交差点まで見学に行った。たしかにカッコイイ、しなやかに両手を上にあげて、華麗に手まねぎをする。竹さんは一日中、見つめていた。横浜に帰った竹さんは、早速華麗な手信号のマネをした。なぜか街頭の人びとは大笑いをしている。そのうち、本署から交通主任がジープで飛んで来た。米軍憲兵司令部から『桜木町駅前で巡査が踊っているので止めさせろ』と通報があったというのだ。その後の竹さんの手信号から、しなやかと華麗?が消え、なぜか、もとの日本警察官に戻っていた。
f:id:nogelog2014:20140826140828:plain