戦後横浜野毛界隈 nogelog

大正生まれが野毛界隈を語る。

マイリトルタウン――野毛下町考(伊奈正人2004年)

 柴門ふみの初期作品に「マイリトルタウン」というのがある。S&Gを同時代で聴いた著者らしく、コンセプトはまさにS&Gで、歌詞を引用させてくれというお願いをしたけど、サイモンはダメポだと言い、しかたなく翻案して作品化している。『愛して姫子さん』だとか、初期の作品に多い、地方都市の高校でイライライライラしている感受性の強い女子高校生の話。その日常を描くだけではなく、そこを出てゆくんだというせつない衝動が空隙の多い絵の運動で表現されている。ナナナンキリコの『Blue』の一見静的な絵柄やダルッとした作品性と比較すると、世代差として若者が浮かぶ気がする。

 連休だし、ちょっと実家のある野毛に戻るかなぁと思っている。そこは「マイリトルタウン」だが、私はそこを出たくて出たわけでもない。某社会学者が、尾道の街を去るときに感じた「二度と戻らないだろう」という思いは私にはなかった。なぜ、街を出たかというと、大学で寮というものを経験してみたかったということにすぎない。私は、下町人情を残した街に愛着を持っている。また、歓楽街独特の猥雑な空気に触れると、落ち着いた気分になる。

 「なんで横浜野毛のことを調査しないのか」と、言われることがある。闇市の頃からの、詳細な手記を親が書いていて、出版しようとしたこともあったが、あきらめて埋もれてしまっている。そんなものをパクりつつ、書くことは可能なのだろうと思う。「まちづくり」として運動している人たちもいる。小さい頃から、餃子を喰った萬里という中華屋の社長がリーダーだったか。平岡正明氏だとか、近所出身の田中優子氏(本町小学校先輩)だとかも協力して、風呂屋をロフトプラスワンみたいにして、演芸だとか、お話だとかの会をしたりもしていたこともあるようだ。平岡氏は著作も出している。考えることもあるけど、当分はしないし、ずっとしない気もしている。関東社会学会で聴いた五十嵐泰正氏の報告でも言われていたことだけど、「下町」っていうマジックワードは、安易に一人歩きしている面もあるのだ。地元に横溢しているルサンチマンは、政治や経済に見捨てられ切り捨てられた「元横浜一の繁華街」といった夢よもう一度的なものに矮小化されることも多い。

 それを矮小化ととらえる私の感覚は、たぶん受け入れられないだろうなぁと思う。五十嵐氏と同じ関東社会学会部会における報告冒頭で本山謙二氏は、「石狩挽歌」をひいていた。野毛は、挽歌が似合うまちなどと言われることもある。「今はさびれてオンボロロ」とか、しゃれにならない。しかし、別様の活気は横溢している。世界万国の人々が働いている。不動産屋の物件をみると、「外国人歓迎」などと書いてある。そして、ありとあらゆる風俗産業が軒を連ねている。ゲイ映画のみられる--っつーか、なかではハッテンしまくりだろうけど--光音座2などという映画館がある。もともとは東宝怪獣映画などの二番館~名画座三番館で、その後ポルノ映画館、そして付近に100とも言われるゲイ御用達のバーがあることから、立地を生かした方針を打ち出した。少し離れた浜マイクの映画館とはまた違う経営方針で、遠くからも客が来て、繁盛しているらしい。しかし、「定住者」は応分に排外的である。

 お金をもらって買った携帯でうれしそうに話し、ドコモの袋を自慢そうにぶら下げていたアジアの女性の姿が、ずっと脳天に突き刺さったままだ。

 せつない憐憫ではない。みんな似たようなもんだということだ。洋行者の外国自慢。上京者の東京自慢。もちろん、貧乏自慢、猥雑自慢も、どーせちょんまげでスーツ着たようなもんだろ。上から目線も,下から目線も,意識高いも下郎気取りも大差ない。悦に入った逝ってよしの馬鹿面で悪いかYOなんて自意識もじゃまくさい。黙って蕭然と氏んでゆく、一般庶民は馬路すごい。おそらく、ばあさんが生きていたら、ドコモの袋を下げた女の子に「いいもん買ったね」とか、声かけてたんじゃないかなぁと思う。晩年痴呆になって歌舞伎まくり、歌いまくり、踊りまくり、子どもをあやして誘拐犯にまちがえられたり、徘徊防止で私たちが外鍵かけて外出したら、屋根づたいに逃げて、腰を抜かして、近所の消防隊に救助されたりした。お調子者だから、餅つきのとき杵でひっぱたかれて、呆けたとか、めちゃくちゃな噂をされたりしていた。太平洋戦争はじまったときも、「勝てるわけない」といってたようだ。集団疎開していた親を、「空襲で死ぬなら一緒に死のう」とか言ってむかいにいき、軍人に「非国民」と言われたとか、逸話はつきない。すげぇばあさんだったけど、陽気で世話好きの「しっかり者」だった。「三国人」と言われた人たちともつきあいのある人だった。米軍の黒人兵士にも「ハローぶらっくちゃん」とかわけわかめな英語で話しかけていた。そんな祖母の記憶は、くくりとることばを求めての、必死なモザイクにすぎないのかもしれない。いずれにしても、そう簡単に言えないと思う。キザなことを言えば、それが私の社会調査論である。恥ずかしながら。横井庄一かっつぅの。