戦後横浜野毛界隈 nogelog

大正生まれが野毛界隈を語る。

[竹さん]昭和二十三年頃の野毛かいわい  

 交番の前に立つと、野毛大通りの車道の両側は、ギッシリと露店が立ち並び、衣類や靴を売る店でいっぱいだった。交番から桜木町駅に向かう花咲町一丁目の道路も、車道の両側は露店が並び、おもに食い物屋の屋台が多かった。物のなかった時代の人びとは、野毛の闇市に群がったため、野毛の町名は闇市と浮浪者の町として全国的に有名となり、よくマスコミの取材があった。とくに桜木町駅に近い桜川にかけられていた錦橋かいわいは、敗戦で目標と職を失った人びとであふれ、善良な人びとは避けて通っていた。泥で埋まった桜川は汚水が溜まり、大岡川に接する錦橋から上流の緑橋までの約百メートルの野毛側の川辺は、「カストリ」というあやしげな焼酎を売る小屋が軒を並べ、人びとは、この通りを「カストリ横町」と呼んでいた。カストリ横町の錦橋側に石炭を扱う「石炭ビル」があり、石炭ビルの裏側を「おけら横町」、南側を「くすぶり横町」と呼んだ。この横町は、米軍キャンプの残飯で作ったオジヤを売るみせ店があって、身元のわからない人びとがひしめいており、この人びとを誰言うとなく「野毛の風太郎」と言っていた。この町は、泥棒品を売りにくる者なども多く、錦橋の上はその盗んだ品物を売っている売人もいて、犯罪者の巣となっており、東洋のカスバとも言われていたのだ。
f:id:nogelog2014:20140822125952:plain