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戦後横浜野毛界隈 nogelog

大正生まれが野毛界隈を語る。

本ブログが本になりました。
www.amazon.co.jp



内容紹介

昭和23年、闇市でにぎわう横浜野毛にのろまでどじな1人の若者が巡査として赴任してきた。 「のろまの竹さん」とあだ名されたこの若者がみたものは、どろぼう・進駐軍・やくざ・風太郎・ヒロポン中毒者・売春婦・浮浪者・浮浪児などが目の前に行き交うカスバのような街。 日々、彼ら/彼女らと接しながら街に暮らす人びとに支えられ、街の治安に奔走する。 そのような戦後の一時代を「のろまの竹さん」は、たしかな記憶で文・イラストを駆使し細部まで描く。そこには貧しく混乱した社会で戦後を生き直す若者や街の人びとが巧まずして記録されている。 それはまさに原初的なフィールドワーカーの眼差しともいえるだろう。

出版社からのコメント

著者の伊奈正司さんは90歳になられた現在も、元気に野毛で暮らしておられます。 70年ちかくも昔のことを細部まで記憶されていて、細部に描かれたものにいろいろな発見があるでしょう。 イラストも退職後絵を勉強され、ご自分で描いています。 戦後の混乱した一時期、本書で描かれたような世界が日本のあちこちで現出したことでしょう。そこに様々な街のコードや下位文化を読み取ることもできるでしょう。

真田のよもやまばなし

http://sanada.at.webry.info/201601/article_2.html

ちぐさのおやじ(伊奈正人 2004年10月31日執筆)

 国際ジャズ名誉の殿堂入りをしたってことで、昨日秋吉敏子がNHKに出ていた。今はさほどジャズに関心があるわけでもない、秋吉の名前を思い出したのは、マンデイ満ちるのCDを始めて買ったとき以来かもしれない。水俣などを作品化したってことで、感心した人も多いんだろうけど、随分長いこと、そんなのは欽ちゃんの仮装大賞で水俣やるみたいなもんじゃないのとか、思っていた。ヘイトアッシュベリーな時代のジャズシーンっていうのは、そういうのとはちょっとちげーんじゃないかなんて、たいしてジャズ事情を知りもしないで思っていた。だいたい私は、秋吉は、ルー・タバキンの七光りで有名になったと思っていたくらいのアホたれだったんだけど、それもけっこう間違いだったということも、あとでわかった。だってビックバンドできたの70年代だしぃ~。そんな私でもNHKの番組はなかなかに面白かった。ものすげぇジャズマンたちとタメで話ができたってことや、いろんな記念写真が残っているのは、さすがに圧巻だった。演奏の善し悪しは、わからないけどね。ヒロシマを今度作品化するようだ。70すぎで、なお製作意欲が衰えないことは、すごいことだ。そんな秋吉も、あとナベサダなんかも、一時来ていたというのが、横浜野毛にあるジャズ喫茶ちぐさだ。店のことは、東京ブルーノートのサイトから引用しておく。

 無愛想な親父さん、おしゃべりをすると常連がキッと睨む緊張感。あのジャズ喫茶独特の雰囲気がいいと言う人も、ちょっと苦手と言う人も、一度は行ってみたいのがここ。昭和8年に開店した、現存する最古のジャズ喫茶『ちぐさ』です。若き日の渡辺貞夫秋吉敏子たちが毎日のように通い、何度も同じレコードを聴き、譜面に書き取り、互いの情報を交換し合ったこの店は、いまも当時のまま。しかし、ジャズ喫茶の親父さんのイメージともなった創業者、吉田衛さんは一昨年の秋に永眠。その一周忌には、この店を愛し、親父さんを慕った大勢の音楽家が集まり、追悼のコンサートが開かれました。現在、店を支えているのは、長年、吉田さんと共に歩んできた妹の孝子さん。「大声で話す人、酔っ払った人、周囲に迷惑をかける人、お断り」のルールは、いま、孝子さんが守っています。
http://www.bluenote.co.jp/city/chigu.html

 前にも書いたが、ここのおやじは私にとって、風呂屋で会うおっさんという以上の意味はなかった。中学、高校と、夜11時すぎになると風呂屋に行って、うだうだいろんな人と話す。「くにのゆ」という風呂屋だったけど、「国乃湯」なのか。「邦の湯」なのかわからない。番頭さんはクニちゃんといい、おそくまで風呂にいると、われわれが湯船につかっていても、汚ねぇベンチだとか、桶だとかをばんばん湯船にぶち込んできて、帰れ帰れと掃除を始める。ドラマ『時間ですよ』で樹木希林がやっていた「浜さん」にそっくしのおばちゃんの店員もいて、帰れ帰れと言う。でも、われわれは気にせず湯船につかり、それから堂々30分以上もいたりした。その時間は、風俗の仕事ひけたおっさんとか、逝ってよしな連中が集まっていた。「おまえ今度できたヌード逝った?」「逝ったけど、たいしたことなかった」「おまえそれはだめ、最終ステージ逝かないと」などと仲間うちで話している。それを、馬鹿ガキ何人かが、ほよぉ~~って聴いているカンジ。ろくでもないこといろいろガキに吹き込むおっさんたちがいた。「おまえカゼか、カゼなんかポン撃てば一発でなおるけどな。ガキに早いからな」とか。そんな銭湯に、決まった時間に来て、キチッと服をたたんで入浴し、キチッと入浴して、キチッと帰ってゆくおやじがいた。挨拶も、せいぜい黙礼くらいの人。そんな記憶しかない。それが、弟が大学に入り、『スイングジャーナル』買ってきて、あのおっさんがでていると興奮状況。ほよぉ~~ッテまた驚きますた。

 その話を家でしたら、闇市の野毛地区をパトロールしていた、うちの親父は知っていた。おっさんのこと。ちぐさのこと。他にも高校の先輩で通っていた人がいて、最初は相手にされないけど、そのうち店の手伝いを頼まれるようになると「一人前」だという。ググってみたら、そんな思い出話が、とある消滅したブログにキャッシュであった。

店が開くのはだいたい12時頃でしたが、ひまなこともあって通いつめました。ある日親爺がカウンターから、ぼうやちょっとこっち、と呼ぶんです。一人だったのでとことこいくと、ちょっと出かけてくるから中に入って・・コーヒーはこうやって、リクエストを聞いて・・レコードは名前順だから・・通い始めてまだ2~3ヶ月の頃でした。それからは、12時頃にいって店をあけて、まず好きな曲をかけて夜まで、という日が多くなりました。少し前にある人にちぐさの話をしたら是非行きたいというので多分10年ぶりくらいに一緒に行きました。お姉さん(といっても亡くなった親爺の妹ですので・・)がいて、・・・怪しげで、敷居の高いジャズ喫茶「ちぐさ」は健在でした。

 で、実は私はこういう敷居の高さもあるけど、一度もちぐさに逝ったことはない。弟もそれなりのコレクションを有するかなりのジャズファンなんだけど、逝ったことはなかったはずだ。こういうところが存在していて、商売になっているということは、すごいことだなぁと・・・わけわかめな話になってしまいました。
(追記)
 ちぐさのおやじが死んで、しばらくやっていた店もなくなって、記念館みたいなのができたと思ってたら、ダウンビートの並びに復活した。看板にハットかぶったしゃれおつなぢぢいがいて、どこの外タレかとおもったら、ちぐさのおやじだった。しかし、父親のように絵を描くようなスケッチは私にはかけないな。

黄金町マリア(伊奈正人 2007年1月14日執筆)

横浜に帰省。野毛通りから桜木町寄りまでは、勤め人を集めてにぎわっている。居酒屋、焼鳥屋、中華などの隠れた名店がある。野毛通りから自宅寄りになるとグッと寂れている。しかし、競馬のある日はにぎわっている。最近は携帯で馬券を買う人が増えたとかで、むかしほどのにぎわいはないが、午後ともなると一儲けした人びとがぞろぞろと遊び場に向かう。通勤ほどの数はないが、かなりの人の流れである。少し前までは、これとは別の人の流れがあった。着飾った万国女性たちである。携帯で話しながら、それぞれの場所に向かう。一斉摘発があってから、そういう人の流れは目立たなくなった。

 この町に生まれて50年、黒沢映画『天国と地獄』にも描かれた日ノ出町、黄金町界隈は、母校である聖母幼稚園への通学路だった。道に落ちてた注射器とかを持って行ったら、捨ててらっしゃいと怒った先生の顔を思い出す。その幼稚園でクリーンアップ作戦(バイバイ作戦)の住民決起大会が開かれたと聞く。それからあとも、花見の時を始め、用事があって、時には興味本位で、その界隈を通過することはあっても、「内側」からそれをみたことはなかった。広岡敬一が、吉原、玉の井、鳩の街、本牧、立川などを、「内側」から撮ったように、この場所を記録できる人が必要だなぁと思っていた。ゼミの学生で、人身売買被害の支援団体のボランティアをし、この街を主題に卒業論文を書いた人がいて、執筆過程でも、そんな話しをくり返した。

 執筆も一息ついたので、パチンコに行き、有隣堂で本をひやかした。横浜の本のコーナーに、この本はあった。著者は、八木澤高明さん。まだ30代なかばである。元は、あのフライデーのカメラマンだったようだが、ネパールなどの取材をして活躍されている。今は、毛沢東主義の取材をしているらしい。詳細は、ホームページをみればわかる。分け入って撮影する眼、とりわけその観察眼は、本書でも遺憾なく発揮されている。

Amazon.co.jp: 黄金町マリア: 八木澤 高明: 本

 南米、東南アジア、東欧の女性たちが客を引く姿、店のなかの様子などが、写真を交えて、描かれてゆく。本文と写真がほぼ半々である。そのなかで、HIVに感染した女性に逢着する。「噂」の取材からはじめて、病気療養中の発疹が顔にできた姿、そしてきれいに死に化粧をした棺のなかの顔も撮影されている。かと思えば、お店の部屋の隅にあった容器に眼をとめる。そこには、小銭が入れられている。いっぱいになると近くのコンビニに募金にいくのだという。

 美談を美化する暇もなく、女性たちの「故郷」を写した写真がならぶ。タイの農村の貧困、家庭の事情などで日本に来た女性の姿。ブローカーが暗躍し、研修組織まであるという噂があった「チェンマイコネクション」などの姿を、写真は写してゆく。さらに、コロンビアのボゴタ他の歓楽街の姿が、写される。殺人が多い地域と言われて久しい。写真は緊張感に満ちている。アジアや南米でも、著者は「内側」に分け入って、写真で記録する。緊張しておびえた表情は、日本の女性の表情と対比されて浮かび上がる。

 野毛山動物園で、子供や配偶者などとくつろぐ各国女性の姿を思い出した。配偶者は同じ国の人の場合もあるし、違う国の人の場合もある。しかし、それも、麻薬のコネクションをつくるための先兵たちなんじゃないかと言うちょっと事情通めかした人たちも、地元には決して少なくない。

  八木澤高明さんは、「内側」からこの街を撮ったのだろうか。それは直ちには判じがたい。しかし、豊富な写真を交えながら、一つの記録が残されたことは、大事なことであるように思われる。

平岡正明『野毛的』とまちの敬老イベント(伊奈正人 2004年9月20日執筆)

 横浜野毛について、けっこう注目されているのだなと思ったのは、平岡正明『野毛的--横浜文芸復興』(解放出版社)を手にとった時である。ネット書店ビーケーワンの紹介文。「大道芸と、美空ひばりと、サンバと刺青と娼婦とジャズの街。ヨコハマの混血文化のなかでも場末ならではの美しさを持っていた野毛に集った人々、通った店、さまざまな思い出を語る」。香具師から、文芸評論家までをこなすこの著者は、はてなのキーワードによれば、最近は日本におけるカルチュラルスタディーズの先駆者などとも言われているらしい。

 この本を読んで、弟の同級生が厨房に立つ餃子が美味いと評判ネット上にこだわりサイトもある。野毛ノヲトというサイトで、野毛情報やノーツ、あと野毛にまつわる資料も「野毛コレクション」として集められている。大谷一郎著『野毛ストーリー』という、野毛者の声を集めた貴重な本が86年に出版されていることもこのサイトで始めて知った。また雑誌が出されていたことも知った。平岡氏が編集したヨコハマB級譚『ハマ野毛』アンソロジーをみると、野毛ビバ系、野毛萌え系の大まかな構図が一望に出来る。

第1章 異国の夕暮をさまよう
平岡正明/中野義仁/福田文昭/森直実/黄成武/田中優子
第2章 ミナトの女、六人半
藤代邦男/大谷一郎/大内順/中泉吉雄/田中優子/笑順/荻野アンナ
第3章 下町硬派
永登元次郎/中野義仁/中村文也/伊達政保/中泉吉雄/陳立人/四方田犬彦/黄成武/アズマダイスケ/大月隆寛石川英輔
第4章 ビバ、下町!
種村季弘/中谷豊/田村行雄/橋本隆雄/森直実/福田豊/大久保文香/鈴木智恵子/平木茂/大久保文香/平岡正明
第5章 大道芸の自由
森直実・加藤桂/雪竹太郎/落合清彦/ルベ・エマニュエル/大久保凡/視察団座談会/水野雅広
第6章 in & out
森直実/宮田仁/高橋長英/田井昌伸/中島郁/見角貞利/佐々木幹郎/大内順/福田豊/織裳浩一/藤沢智晴/大久保文香/中谷浩/平岡正明vs.橋本勝三郎/田中優子vs.平岡正明平岡正明梁石日三波春夫

 世界各国から人が集まる大道芸から、下町、異国情緒などなど。ただし、90年代に盛り上がった野毛ルネサンスだったにしても、最近はややくたびれてきているように思われる。大道芸なども、始まったころに比べるとものすごい盛況ではあるけど、主要なイベント会場は大資本がバックにいるみなとみらいの方に移りつつある。

 野毛自体は、昨今はさほどの前進はないと思う。そのなかで例外的に新しく立ち上がったのが、野毛にぎわい座である。落語や演芸をする小ホール。出来たときは、岡山にミニシアターのシネマクレールが出来たときと同じように、大丈夫かいなと思ったけど、今のところ続いている。今日は敬老会で、うちの両親はそこに行っている。演芸などもあるようだが、メインは、町内の二世会青年部の寸劇みたいなもの。おっちゃんたちが、白鳥の湖とか、水戸黄門とかをやって、大爆笑だという。面白い企画だなぁと思う。

 白鳥・・はものすごく上手くて、というか上手すぎてシーンとなってしまい、あまりうけなかったらしい。それはそれで男のバレーでよいと思うのだが、すごく悔しがっていたらしい。今年の水戸黄門は、黄門様、助さん、格さん、お銀、悪代官などなどオールキャストで、大爆笑だったという。そして、最後は地元選出の松本健という市会議員のかたが、ホンモノ顔負けのコスプレで、なんとマツケンサンバをやって、今までにない大喝采だったと、辛口の親も絶賛していた。みんな芸達者で馬路面白いらしい。地元の小学校、中学校からも、出し物がでて、最後はみんなの母校である本町小学校の校歌をうたってちゃんちゃん。

 野毛は「老人が安心して一人で死ねる街」などと言われているわけで、歓楽街、博打街である一方で、非常に面白い人間関係があり、またなんともいえぬ街の活力がある。近くの浜マイクな映画館の方に目をやれば、「阪妻映画祭」@シネマジャックほか、卓抜な企画力の映画が上映されているし、アート系の映画館もあるし、またライブハウスだって、クレージーケンだとか、いろんなアーチストゆかりの場所が野毛界隈にはある。ゆずが、路上で歌っていたのは、松坂屋の前だし、そのゆずも、けっこうやばいバイトとかしていたわけだし。野毛坂には老舗の古本屋があり、その上には図書館、能楽堂、文化センターなどなど。ジャズ喫茶のちぐさを知らない人はジャズファンにはいないだろう。そして、ワクワクするような得体の知れない飲み屋街が広がっている。なにやらかにやらひととおりととのっていて、息が詰まるような過剰なまでの文化的な生気が発散されている。こういう街は、区画整理、再開発というようなロジックではとらえきれない魅力がある。
 私は、都市や地域の専門ではないし、故郷の調査はやはり自粛すべきだろうとは思う。野毛裏の出身で、文化社会学をやっているからと言って、訳知り顔で何かを語ることには、吐き気がする。ろくに挨拶もできないコミュ障で、地元の青年会などとは無縁でここまできた。二十年くらい他にすんでいたわけだし。ひとつだけ、言い訳できるものがあるとすれば、神輿を担ぎ続けていることだろうか。

マイリトルタウン――野毛下町考(伊奈正人2004年)

 柴門ふみの初期作品に「マイリトルタウン」というのがある。S&Gを同時代で聴いた著者らしく、コンセプトはまさにS&Gで、歌詞を引用させてくれというお願いをしたけど、サイモンはダメポだと言い、しかたなく翻案して作品化している。『愛して姫子さん』だとか、初期の作品に多い、地方都市の高校でイライライライラしている感受性の強い女子高校生の話。その日常を描くだけではなく、そこを出てゆくんだというせつない衝動が空隙の多い絵の運動で表現されている。ナナナンキリコの『Blue』の一見静的な絵柄やダルッとした作品性と比較すると、世代差として若者が浮かぶ気がする。

 連休だし、ちょっと実家のある野毛に戻るかなぁと思っている。そこは「マイリトルタウン」だが、私はそこを出たくて出たわけでもない。某社会学者が、尾道の街を去るときに感じた「二度と戻らないだろう」という思いは私にはなかった。なぜ、街を出たかというと、大学で寮というものを経験してみたかったということにすぎない。私は、下町人情を残した街に愛着を持っている。また、歓楽街独特の猥雑な空気に触れると、落ち着いた気分になる。

 「なんで横浜野毛のことを調査しないのか」と、言われることがある。闇市の頃からの、詳細な手記を親が書いていて、出版しようとしたこともあったが、あきらめて埋もれてしまっている。そんなものをパクりつつ、書くことは可能なのだろうと思う。「まちづくり」として運動している人たちもいる。小さい頃から、餃子を喰った萬里という中華屋の社長がリーダーだったか。平岡正明氏だとか、近所出身の田中優子氏(本町小学校先輩)だとかも協力して、風呂屋をロフトプラスワンみたいにして、演芸だとか、お話だとかの会をしたりもしていたこともあるようだ。平岡氏は著作も出している。考えることもあるけど、当分はしないし、ずっとしない気もしている。関東社会学会で聴いた五十嵐泰正氏の報告でも言われていたことだけど、「下町」っていうマジックワードは、安易に一人歩きしている面もあるのだ。地元に横溢しているルサンチマンは、政治や経済に見捨てられ切り捨てられた「元横浜一の繁華街」といった夢よもう一度的なものに矮小化されることも多い。

 それを矮小化ととらえる私の感覚は、たぶん受け入れられないだろうなぁと思う。五十嵐氏と同じ関東社会学会部会における報告冒頭で本山謙二氏は、「石狩挽歌」をひいていた。野毛は、挽歌が似合うまちなどと言われることもある。「今はさびれてオンボロロ」とか、しゃれにならない。しかし、別様の活気は横溢している。世界万国の人々が働いている。不動産屋の物件をみると、「外国人歓迎」などと書いてある。そして、ありとあらゆる風俗産業が軒を連ねている。ゲイ映画のみられる--っつーか、なかではハッテンしまくりだろうけど--光音座2などという映画館がある。もともとは東宝怪獣映画などの二番館~名画座三番館で、その後ポルノ映画館、そして付近に100とも言われるゲイ御用達のバーがあることから、立地を生かした方針を打ち出した。少し離れた浜マイクの映画館とはまた違う経営方針で、遠くからも客が来て、繁盛しているらしい。しかし、「定住者」は応分に排外的である。

 お金をもらって買った携帯でうれしそうに話し、ドコモの袋を自慢そうにぶら下げていたアジアの女性の姿が、ずっと脳天に突き刺さったままだ。

 せつない憐憫ではない。みんな似たようなもんだということだ。洋行者の外国自慢。上京者の東京自慢。もちろん、貧乏自慢、猥雑自慢も、どーせちょんまげでスーツ着たようなもんだろ。上から目線も,下から目線も,意識高いも下郎気取りも大差ない。悦に入った逝ってよしの馬鹿面で悪いかYOなんて自意識もじゃまくさい。黙って蕭然と氏んでゆく、一般庶民は馬路すごい。おそらく、ばあさんが生きていたら、ドコモの袋を下げた女の子に「いいもん買ったね」とか、声かけてたんじゃないかなぁと思う。晩年痴呆になって歌舞伎まくり、歌いまくり、踊りまくり、子どもをあやして誘拐犯にまちがえられたり、徘徊防止で私たちが外鍵かけて外出したら、屋根づたいに逃げて、腰を抜かして、近所の消防隊に救助されたりした。お調子者だから、餅つきのとき杵でひっぱたかれて、呆けたとか、めちゃくちゃな噂をされたりしていた。太平洋戦争はじまったときも、「勝てるわけない」といってたようだ。集団疎開していた親を、「空襲で死ぬなら一緒に死のう」とか言ってむかいにいき、軍人に「非国民」と言われたとか、逸話はつきない。すげぇばあさんだったけど、陽気で世話好きの「しっかり者」だった。「三国人」と言われた人たちともつきあいのある人だった。米軍の黒人兵士にも「ハローぶらっくちゃん」とかわけわかめな英語で話しかけていた。そんな祖母の記憶は、くくりとることばを求めての、必死なモザイクにすぎないのかもしれない。いずれにしても、そう簡単に言えないと思う。キザなことを言えば、それが私の社会調査論である。恥ずかしながら。横井庄一かっつぅの。

遊郭の鉄火場つぶし 

竹さん

 交番警察官の働きを署長は高く評価し、遊郭の鉄火場の手入れを命じた。 こんどは竹さん達の交番の管轄外だから、見張りの位置や賭博をやっている開張日を自分達で確認しなければならない。指揮者と竹さんは、鉄火場を見下ろすことのできる隣の郵便局の屋上に上り、数日かかって開張日、見張りの位置、周囲の状況などを観察して図面を作り、極秘に作戦を検討した。ちょうど都合よく鉄火場の隣に料亭がある。指揮者は、架空の会社名でその料亭の鉄火場に面した部屋を慰安会の名目で予約をした。開張日は偵察済みである。ただ、念のため、郵便局の屋上で確認して来る者を配置した。そして社長に化けたり、部長に化けたりした奇妙な会社員が料亭に集まった。酒と料理を運ばせたが、料理だけを食べて酒は一滴も飲まず、迷演技?で歌い踊った。開張を見届けた者からの報告があり、静かに一人ずつ料亭の中庭に出た。中庭の竹垣の外は、見張りのうしろの路地で、路地の向かいが目指す鉄火場だ。先行隊が竹垣をソッと引抜き、なんなく見張りのうしろの路地に出て、鉄火場の玄関から静かに中にはいり、旦那衆の居並ぶ盆茣蓙を取り囲んだが、勝負に夢中の連中は声を掛けられるまで気付かず、あっけなく全員逮捕した。旦那衆を逮捕されたその鉄火場もつぶれてしまった。
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闇市の鉄火場つぶし 

竹さん

 署長は、闇市の鉄火場の手入れを命じた。その鉄火場は、人足相手の屋台店がひしめく、人足寄せ場のような町にあったので、客は人足ばかりだった。見張りは表と裏にいた。指揮者の巡査部長は、この手入れの要員に柔道選手を選抜した。集合は隣接署の空交番だ。指揮者は、見張りを投げ飛ばして突入するイ号作戦と、見張りをおびき出して突入するロ号作戦の二つを示し、どちらにするかは現場の状況で決定して指示すると言った。二人、三人と分散して私服巡回をよそおって静かに鉄火場の表と裏を包囲した。表に長身の見張りが一人立っている。指揮者はイ号作戦を決意し、Y選手に見張りを一瞬にして倒すことを命じた。Yは見張りに近付いた。見張りが「ご苦労さんです」と言った途端、必殺の大外刈りが飛んだ。見張りは声も出さず仰向けに倒れた。間髪を入れず先行隊が突入し、続いて竹さん達が突入した。不意を突かれた賭博中の人足どもは慌てて逃げ出したが、柔道選手ばかりの包囲網は破れず、全員投げ飛ばされて逮捕された。町の人びとは、恐ろしく柔道の強いお巡りさんばかりだったと、驚嘆の噂をした。だが、この鉄火場の客人は人足ばかりで、しぶとくつぶれず、本部警備隊の絶え間ない手入れによって、ようやくつぶれた。
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